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zoom RSS 上田原の戦いー古戦場に残る伝承地・史跡ー

<<   作成日時 : 2018/05/17 07:04   >>

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 上田原古戦場に伝わる陣地、武田・村上両家が布陣した地を見てきた。
 ここからは、戦いの詳細について思考してみる。 やはり『甲陽軍鑑』の記述は物語的と感じられる。しかしよく考えてみると、人が言葉で語ったからこそそう感じられるのであろう。 だから物語なのだろう。
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 (伝 村上本陣 須々貴山から上田原を眺める)

 この戦を記録したものは小生の知る限り、3件の古記録による。 何れも武田方の史料となる。 その内の2件は用いられることが多く、通説の根拠の一端を担っている史料である。

 小生が注目するのは、『甲陽軍鑑』である。 肯定派の小生にはどうしてもこの書を用いないわけにはいかない。
 何故なら、この書が武田信玄という人や武田家が刻み続けてきた時を知る手掛かりが多数含まれていることによるからである。

 以前にも示したが、軍鑑を用いないと、上田原合戦は殆ど分からない―、というのが小生の考え。 
 通説の天文十七年二月十四日、上田原(塩田原)で武田村上両軍が合戦をして、有力家臣が戦死した。
 戦死者は、板垣駿河守・甘利備前守・才間河内守・初鹿根伝右衛門。 何れも武田方。 これ位である。

 一体、これだけの重臣が戦死し、大将自身(武田晴信)も負傷する戦いはどの様であったのか?

 上田原古戦場の地形、周辺域に残された関連遺跡(供養墓等)史跡の所在地、また語り継がれた伝承を基に、上田原合戦の真相に迫ることを目的に思考をした。

 初めに、自身で確認した古戦場周辺域に残された伝承地と遺跡・史跡を明示する。
 図の原本は、『上田小県誌 第一巻』・『上田市誌 歴史編(5)』を参照し、小生が手を加えた物である。
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 @道端の供養塔(墓)? A伝 村上本陣須々貴山 B字 塩田河原 C字 物見塚 
 D伝 小島権兵衛供養墓E伝 屋代源吾供養墓 F伝 板垣信形供養墓(板垣神社) 
 G葦原淵神社(若宮八幡社) H常福寺 I伝 雨宮刑部供養墓 J観音寺 
 K道端の供養塔(墓)? L石久摩神社(諏訪社) M伝 無名戦死供養墓 
 N伝 武田本陣(旗塚周辺) O字 旗塚 P加美畑神社(諏訪社) Q字 御着
 R御陣ヶ入 S御陣ヶ原 ㉑御陣ヶ入 ㉒相図山 ㉓兵糧山 
 ㉔味方原 ㉕物見山 ㉖堤防跡(天下やどり之碑)


 *加美畑神社の南、耕作地と住宅の間の境にも@やKと類似する供養塔(墓)を確認した。 詳細は不明。

 上田原古戦場周辺域に残る寺社は合戦時の兵火で焼失。 当時までの記録を失っている。 
 
 また上田原合戦の日時について。
 通説は、天文十七年二月十四日 現代の暦で表記すると1548年4月2日 干支年 戌申、 干支日 申、
六曜 先負、 曜日 金曜日。
 『甲陽軍鑑』では天文十六年八月廿四日 現代の暦で表記すると1547年10月17日 干支年 丁未、
干支日 壬申、 六曜 先勝、 曜日 金曜日。

 偶然かもしれないが、どちらも合戦日が金曜日、また通説では、先負の日に戦いが行われ、歴注の示す通り、武田方には凶が降りかかった。 
 一方、『甲陽軍鑑』では六曜は先勝となっている。 これは参考までに留めておく。

 

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