歴史散策―真実を求めて―

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zoom RSS 武田軍の行軍過程

<<   作成日時 : 2012/05/13 08:33   >>

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 GWを利用して武田軍の信濃侵攻の経路や行軍過程を巡る旅に行ってきました。

 武田軍の動きを詳しく記した史料 『高白斎記』 の天文十二年の条に、長野県小県郡長和町にある長窪城(城主大井貞隆)の攻略に向け出陣しています。

 内容を見ると、

 九月九日辛亥(かのとい) 申刻(16時頃) 光台(こうだい 大井貞隆の出家名)の退治の為、千塚まで御出陣

 とあります。
 注目は武田軍は夕方(16時)に出陣しています。ただしこれは最後の御出陣とあることから、御は主君を表していますので、この日時の行動は主君、武田晴信のことを指していると見られます。

画像 
 この千塚というのは現在の甲府市千塚町、躑躅ヶ崎館(武田神社)より南西に約5km付近となります。山の手通りの千塚という交差点付近を散策したところ、少し武田神社方面に戻ったところに、千塚八幡神社(ちづかはちまんじんじゃ)があります。
 
 参道脇の石碑には 千塚八幡神社の歴史 が刻まれていました。

 後一条天皇の長元三年(1030年)甲斐守となりし源頼信神殿を造営祈願の誠を捧く。以来甲斐源氏の武田氏は代々本社を氏神として篤く崇拝、信虎は飯田河原上条河原の合戦に、ここを本陣として御加護のもとに大勝益々深く崇敬太刀その他多くを奉納、信玄も之に劣らず度々寄進にて社殿は壮麗を極むと伝う

 これにて武田晴信が何故夕方に本拠地を出発したのか? その辺りを納得することが出来ます。 この当時の人々は神仏や占いなどを現代人の意識とは比べ物にならないほど崇拝かつ信じていました。よって武田晴信が当日申刻(16時)に出発したのはこの時が何かの吉があったのでしょう。『高白斎記』には意味不明の占い等に関する記述が数多く記されています。
 そして武田家の氏神、また父信虎戦勝の地に参拝して戦勝を祈願したことでしょう。 これらの行動を見る限り、武田父子、信虎・晴信不仲説の根拠が崩れるかもしれません。

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