歴史散策―真実を求めて―

アクセスカウンタ

zoom RSS 瀬沢合戦之図

<<   作成日時 : 2011/06/02 23:13   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0

画像
 今回も瀬沢合戦に関する史料で、諏訪市図書館において蔵書よりコピーしたものであります。冊子名は『諏訪史蹟要項 八 富士見村篇』です。
 表記には「甲信之境・瀬澤合戦 (北山村柏原観喜院所蔵)」と題されています。
 絵図の右手▲印が信州連合軍(青色で明記)、左手●印が武田軍(赤色で明記)です。全体を見ると信州連合軍各隊は山或いは丘陵地に陣を敷いています。武田軍はほとんどの隊が平地或いは山際に陣を敷いています。
 信州方の布陣は上から小笠原殿・諏訪殿・村上殿(前面に配下の額岩寺・井上)・木ソ殿と記されています。
 一方武田方は、上段右手より 飯富兵部(譜代家老衆)・原美濃(足軽大将衆)・安間三右衛門(足軽大将衆)・原加賀守(譜代家老衆)
 中段右手より 多田三八(足軽大将衆)・小幡山城(足軽大将衆)・横田備中(足軽大将衆)・鎌田五郎左衛門(未詳)
 下段右手より 板垣(譜代家老衆)・甘利備前(譜代家老衆)・晴信(武田家当主)・郡内小山田(譜代家老衆)・諸角(譜代家老衆)
 最下段白旗、典厩(晴信実弟)が記されています。
 補足として小山田隊は小笠原勢に攻め掛ける。諸角隊は左兵衛(小山田)の後詰と記されています。

 では瀬沢合戦とはどの様な戦いであったのか?
 瀬沢合戦を記した史料は『甲陽軍鑑』であり、品(ほん)第廿二 に 甲信境せざわ合戦之事 に記されています。
 要約すると、 天文十一年(1542)壬寅(みずのえとら)二月中旬に信濃国の大身(たいしん *主だった者)衆である小笠原・諏訪頼茂(軍鑑では茂と記される)・村上義清・木曽殿がことごとく申し合わせて、甲州武田晴信公を退治いたすべきとの評議の事、甲州に聞こえてきた。晴信は信濃国より抱え置いておいたすっぱ(忍者)を武田方・信濃方双方に放ち情報作戦に出た。武田方は館の堀を拡げ、籠城戦に備えているのうわさが信濃方に流れているとの情報を得て更に将兵は陣を張り休んでいるとの情報を得た。武田晴信は敵方の油断を突き兵を進め攻め掛かりました。三時ばかりの合戦に九度戦いがあり、諏訪衆は飯富兵部、村上衆は甘利備前・板垣、小笠原衆は郡内小山田左兵衛、旗本は味方の崩れた方を助けた。この合戦、天文十一年壬寅、三月九日辰刻(午前八時頃)に甲州より戦を始め、未刻(午後二時頃)に終わる。信濃勢を打取る数千六百廿一の首帳をもって勝鬨執り行ないました。味方も手負い、死人多数あり。飯富兵部、甘利備前も負傷した。せざわ合戦とは是である。信玄公廿二歳の時である。

 武田軍は勝利しましたが、自軍の損害も多大であったようです。それを物語る遺蹟として「九ツ塚」の存在価値は大きいと思います。

 瀬沢合戦を通説史にあてはめてみますと、前年天文十年六月武田家当主信虎今川家に追放、晴信が当主の座に就く。当年七月武田軍は高遠頼継と呼応して諏訪へ侵攻上原城を攻め落とし諏訪頼重を甲府へ連行する。
 武田・諏訪両家は婚姻関係を前提に同盟関係にありました。しかし当代信虎の追放後、両家の関係は一変します。そして翌年七月には武田軍は諏訪への進攻へとなります。この間に瀬沢合戦は行われています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
各合戦の動員人数について(14)瀬沢の合戦
皆さんこんばんは。今回は「各合戦の動員人数について」シリーズの14回目で「瀬沢の合戦」についてです。『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の坂本徳一氏の記事を参考にしています。今までの記事第1弾 江古田原沼袋合戦第2弾 権現山の戦 ...続きを見る
Coffee, Cigarettes &...
2018/08/19 19:02

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
瀬沢合戦之図 歴史散策―真実を求めて―/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる