歴史散策―真実を求めて―

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<<   作成日時 : 2017/05/16 00:04   >>

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 都内での辛抱の生活をしている中、ふと、気がついた。

 見ると何かに似ている。 あれだ!
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 コンクリートが黒いうんこを漏らしている。 って、こんなことを最近思ってしまうほど、思考が狂ったのか?豊かになったのか? 構造物までここまで締まりが悪くなった。人間社会を反映してるのであろう。

 都内の人の多さには、どうしても小生は馴染めない。 胸が苦しくなったり、気分が悪くなってしまう症状までになった。 だったら来るな―、と言われれば、正にそうなのだが。 しかし、仕方のない事情があり、通勤電車を乗らない為の、苦渋の決断であった。

 それもあと少しの辛抱で解放される。 救われたのは、黒いうんこの近くにある、大きな公園であった。

 小生の都内での生活の大半は、この公園であった。 正に公園で暮らす○○みたい。 何をしてるかって、昼寝と読書だよ。 図書館を利用してさ。 元手はゼロで、知識と教養を身につけられる。 小生のような貧乏人にはこれで十分だからね。

 だけどそれは、言葉上と云うか、傍から見た見解であり、当の本人はそうは思っていない。 つまり、自分で自分を見ることは出来ない。 だけど現在は至る所で見えてしまう。 見えなければどんな容姿をしていようが、自分は分からないのだから、気にすることもない。
 だけど、今は違う。 いたる所で自分の容姿が見えてしまう。

 で、どんな格好がどうか、というとそれも曖昧である。 新しい物か古いも物か、そうとも言えない。
 つまり今の世は、自分が良ければ、気に入っていればそれでいいのだ。 だから他人の容姿はどうでもいいはずなんだが、そうとはいかないのが現世である。

 他人と比べるのは、何の為なのであろうか? その意味が小生には分からなくなった。

 つまるところ、小生はやっぱり身勝手な人間であることに変わりがないということに気がついた。 それはこの国の人間の性質と全く変わらない。 だから身勝手な人間が心安く生きるには、人の迷惑にならない、人に関わらない、これしかないと考えた。 だからよく言う、人間力、協調や交流は建前である。 身勝手な人間が自分の居場所を探して、相手との距離感を計っているに過ぎない。 つまり間を計っているだけだ。

 日本は陰湿社会であることに気がついた。 人の嫌がることをして、自分の鬱憤を晴らす。 それが蔓延して、今では常識化、当たり前になった。 だから公の立場にいるときは、なんだか分からないほど馬鹿丁寧な対応が一般的になっている。 それはつまりそうした私の鬱憤から逃れる為の手段、回避行動であり、とてもじゃないけど、おもてなし―、なんていう作法でもなんでもない。
 こんな事をしているから鬱憤が貯まるのであって、普通がいいのではないかと考えた。 まあでも行ってしまえば、これも身勝手な一個人の考えでもあるが。

 つまり、対等であるという考えが正しいのではないか。 何かを得るとき、法外な対価を渡しているわけでは無い。 互いがその価値の物を承諾して交換しているだけである。 当たり前である。 そこに何故一方だけがご丁寧さを演出しなければいけないのか?

 日本は何故か、おもてなし―、なんて言って、次期五輪を獲得してしまったが、この国におもてなしなんていう習慣があるのだろうか?
 所謂、現行の接客はただ単に、馬鹿丁寧であるだけで、その奥にある物が無い。

 何時も何処でも型通りの対応では、そうした おもてなし の心は伝わらないであろう。やっていることは自己防衛にすぎないからだ。

 つまりもっと気楽でいいし、それぞれの形が有っていいし、最後は気持ちの問題なんじゃない。

 気楽と云うのは、身勝手とは違う。 しかしその気楽さという習慣は、どうやら日本人には不得手で苦手な習慣・風習のようだ。 つまりこの国は人が多すぎるということだ。

 気楽さの密度が高すぎると、それは気楽さを越えて、気不味さになってしまう。
 それがこの日本社会である。 気不味さに身勝手が加わって、日本人お得意の陰湿さが入ると、現行社会の息苦しい社会。 見ていて気味が悪い社会だ。 それは日本人という人間が作り出すものであり、その人間が一カ所に集中するから始末が悪くなるのだ。

 例えば、駅のホームの階段やエスカレーター・エレベーター。
 電車が到着すると、一斉にドア付近に人が殺到する。 乗降客が一気にだ。 狭い場所に大勢群がるのだから混雑するのは当然。 老若男女一応に殺到する。 歩く速さも向かう方向も、考えている事も全て様々な者が一カ所に集中する。 円滑に進むわけはないね。

 駅のアナウンスや車内放送では、なんか言ってるけど、結局、最後はまもなく発車します。 ドアを閉めますなんて、まだ車内の者が降りてもいないのに。 何で急かすのだろう。

 やっとの降りれば、乗れば、またまた人だかり。

 降りればその先の階段や昇降設備の前には人だかり。 一気に人が群がる。 つまり間がない。 最悪の場合は、電車に乗りたい人が、血相を欠いて下りてくる。 これだもの前に進むわけがない。

 つまりこれが渋滞という現象の原理である。 我先に、と限られた空間に大勢が殺到する。 自らで、混雑を作り上げ、醜い争いをしている。 どっちが先だ後だと、更には前の人を追い抜こうと必死になっている。

 もう見苦しいと来たらありゃしない。 

 間がないということは、はっきり言えば、間抜けの集まりだよね。 あの状態は利口な者が行っているとはとても思えないよ。

 でもってこんな生活を毎日しているんだもの、そりゃいい加減鬱憤やストレスなんかも知らず知らずの内に貯まるわな。
 
 でもって、癒しなんていう気味の悪い表現が世の中蔓延してるしさ。 癒されるってなんだよってね。

 で、その癒しを求めてまたまた、人間は限られた空間に殺到して、同じ演出と状況を作り出している。 

 一体日本人って何に向って進んでいるのかなと?

 日本は何をして、どうしたいのだろう? 小生には全く分からない。

 幸せの為に、窮屈な思いと鬱憤とストレスを溜めこんで、抱えきれなくなったら貯まった物を晴らしたり、癒されたり、その事にたいしてお金という富の物差しで対処する。
 
 ということは、幸せとはお金で得る物で、幸せの為に働いてお金を得るのか? お金の多い少ないで、幸せの度合いも変化するということなのか?

 そうだとするなら、この国は一体どの位不幸せなのだろうか? 国家が抱える借金は不幸の代物か? その付は国民一人一人の物であるのか?

 結局今の社会をちょっと下がって、控えめに静かに眺めていると、社会が二極化・二面化しているように見える。
 建前社会と本音社会が同時進行で社会を形成している。
 建前社会は公の場、本音社会は私の場。 建前社会は常識行動、本音社会は非常識行動。
 建前社会は拘束された社会、本音社会は何でも有り社会。 
 つまり両面の社会で、極端化しているということだろう。

 この両面の人間が至る所でそれぞれの思い通りに動き、生きている。 それも24時間常にだ。 そして更に突っ込んで言えば、建前社会は善を装っているだけで、本音社会はそのはけ口で思いっきり悪を行う。 
 今までは、この善悪の二極が互いに釣り合い、調和していただけなのかもしれない。 中立を保つことでなんとかなっていた。 しかし今はこの釣り合い、中立が維持できなくなった。 これが現社会だろう。

 更に突っ込んで言えば、男は如何に楽をしてお金を得て女と自由を買うか、女は如何に裕福な男を見つけて楽豪遊するか。 はっきり言ってこれしかない。

 つまり本音社会の実像とはこういったものだ。 だからいくら建前社会で綺麗ごとを言っても、それは口先だけの虚偽であり、本音は悪を貫くだけということだ。 

 でこうなったのは何故か。 時を遡ってみれば、恐らく太平洋戦争の敗戦に行き付くだろう。 敗戦により敗戦国として一から出直してきた。 しかしその過程に於いて、日本と云う国は、その敗戦に至った経緯を精査し総括しなかった。 なんとなくで来てしまった。 触りたくないところをそのまま放置してきた。 そこに行き付くのだろう。
 敗戦からの立ち直りの過程では、そんなことは考える余裕もなかったかもしれない。 だけど何故こうなってしまったのかを明確にしなかった。 神なんていう造語で片付けてしまった。 つまり神格化してしまった。
 だから何時までたっても、触れずらい曖昧な対処・対応・行動しかできない民族、日本人が出来てしまったのだろう。 だから問題が起きても、何も出来ず曖昧な対応で逃れて来ただけなのだ。 それは今でもそうであり、至る所で目にする光景が正にそれを物語っている。 そして。

 現状では、隣国が核兵器を実戦配備するまでになってきた。 そうした状況下になってもこの国は何もしようとしない。 つまり危機感もなければ、対処・対応力もない。
 ただただ、当り障りのない偽情報と化した程度の事をただただ流しているだけで、そこに小銭稼ぎの評論家が一個人の見解を無責任ながら公に公表しているだけである。 

 国家の憲法で、戦争放棄を述べているにも拘らず、莫大な税金を投入して、最新鋭の兵器だけを保有している。 戦いを放棄した国がこの様だ。 一体この国は何をしたいのだろうか?

 そして今まさに、戦闘行為を合憲化しようとしている。 つまり憲法改正だ。

 議論も意見も何もかも中途半端な者が、目先の損得で右往左往している中で、敗戦国という歴史を葬り去ろうとしている。 結局他人事の様にしか捉えられない今の日本人にはその程度のことなのであろう。

 憲法を変えるか否かの状況下に於いても、この国の国民の意識は殆ど他人事である。 各選挙の投票率を見れば一目瞭然だ。
 意志表示をしない、やらない。 そのくせメディアは各方面に於いて、現政権の批判しかしない。 つまりメディアは現政権の批判行動をするための組織と化している。 そして其の一部極の報道を真実として見ている国民はただただ骨抜きにされているだけだ。

 現政権を批判する前に、国民を批判してみてはどうなのだろうか。
 意志表示をしない者が、何を批判できるのだろうか。 それくらいこの国は無関心・無意識な国となり国民となってしまった。 つまり金と楽と女と男を求めるだけの野蛮人になっただけだろう。

 とまあまたまた愚痴になってしまたが、結局小生も逃げてしまった人間だから偉そうな事は何も言えない、だけど適当な事を言って報酬を受けているのではないからまだましだろう。

 でまあ、それはそれとして、最近逃避生活の中で、いろいろと心を穏やかにしている。 
 やっぱり曲と云うのはいいものだな。

 フジコ・ヘミングのピアノ演奏はいいね。
 目をつぶって、楽譜もない、あの指で、あの音色を奏でる。 指先はピアノの鍵盤の上で正に踊っている様にみえてしまう。
 以前イチローが言っていたが、バットの先端まで自分の神経が届いていると。 おそらくそうした状態なのであろう。 そこまでなれる状態、つまり集中して没頭できることはいいものだ。

 小生も遅れながらもそうした境地を見つけられたようだ。
 物を読み、曲を聴いている時、そうした状態に陥ることが出来るようになった。 それも自宅の自分の部屋で。 原価は殆ど無いに等しい。 必要なのは時間だけである。

 
 

 

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